古事記について その1

宗教の始まり

しばらく古事記について、だらだらと書いてみたいと思います。古事記は、フィクションだ!とか神武東征は事実無根だ!という主張には、大いに疑問を感じるので、まあそんなようなことに関する素人のたわごとを、アレコレを書いていきます。念の為に言っておきますが、さすがにスサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治したのは事実だとか思っているわけではありません。何らかの象徴的な出来事があったために、ストーリーが生まれたと思っているということです。とりあえず今回は、神話の始まり、つまりは宗教の始まりについてです。

宗教の始まりへの疑問

正直な話をすると、私自身はいかなる宗教も信じていません。初詣には行くし、神社の前を通ればお賽銭を投げて家族の健康をお願いしたりはしますが、まあその程度のことです。けっこうたくさんの人が同じような感覚なのではないでしょうか?

ですが長い歴史の中では、宗教は非常に大きな影響力を持ち様々な役割を果たしていきます。そんな大きな影響力を持つ宗教が、どのように発生したのか?最初に頭に浮かんだ疑問がこれでした。

民衆をコントロールする手段としての宗教

宗教の始まりについて考え始めた当初、まずはじめに考えたのが宗教が政治的に使われてきたという事実でした。実例を出すと、色々と問題ありそうなので書きませんが、戦争や疫病対策、それから人口管理などなど、さまざまな場面でご都合主義的な教義が生まれ、人々はそれに従わされてきたわけです。この視点にたつと、宗教というものは、権力者もしくは集団を率いる統率者がただ単に自分にとって都合の良いことを宣伝したものだと言えるでしょう。

当初の目的は神聖だったかもしれませんが、多くの宗教が政治の道具として使われてきたということは、否めない事実です。古事記についても、天皇の正当性を示すという目的があったのは事実でしょう。

しかしながら、民衆をコントロールするために古事記や日本書紀の神話を作り上げたとするのは、少し無理があるように感じるのです。あまりにも不可解で意味不明、唐突なストーリー。そして離れた地域で共通するモチーフやストーリを考えると、神が実在するとは思わないまでも、人間の精神活動から自然に発生するイメージのようなものがあるように思えるのです。

原始宗教の始まり

それでは原始の宗教は、どのようにして生まれたのでしょうか?自分たちが解決できないことが発生したとき、何か喜ばしい事が起こったとき、悲しくてやりきれないことが発生したとき、そんないろいろな場面で納得するための理由やストーリーが必要とされたからではないかと、私は考えています。

例えば、災害で住処を追われたときのストーリー、子供が生まれる理由のストーリー、人が病で死んでいく理由のストーリーなどなど、人が努力でコントロールできない部分を説明するストーリーが、必ず必要とされたはずです。そしてストーリーがあったからこそ、人が集団として団結して暮らすことが出来たと考えるのです。現代に暮らす私達も、自分では解決できないことが発生したとき、適当な理由を創作して納得しようとすることがあります。古代の世界には、現代よりもたくさんの制御できない困難が存在していました。それだけに、たくさんのストーリーが必要だったのでしょう。

ストーリーは存在し続けた

縄文時代に限らず、その後の時代にも必ずストーリーは必要とされ存在し続けたはずです。現代においても様々な会社で創業史という神話が受け継がれています。いくら時の権力者といえども、そういったストーリーを無視して自分勝手な話を創作することは出来なかったはずです。

そして、各地に受け継がれてきたストーリー(神話)を踏襲した上で、多くの人が納得できるストーリーとして古事記が作られ、それがある程度は納得できるものだったからこそ、現代まで各地に残る神社などの形で受け継がれてきたと考えるのです。

だからこそ軽々にフィクションだとか事実無根だとして切り捨てることは出来ないと、私は考えるのです。そしてそういった意見に対して、違和感をおぼえるのです。

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