古事記について その2

デタラメなの?

古事記について、素人が思いつくままに妄想を垂れ流すシリーズの2回めです。

前回は、神話なんてものは人が意図的に作り上げたストーリーではなく、さまざまな局面で必要とされ自然に作り出され、そして集団として団結するために活用されてきたという話を書きました。今回は、なんであんなにもでたらめなストーリーになったたのかという話についてです。

なぜでたらめなのか?

古事記の起源は、少なくとも縄文時代まで遡るはずです。そして古事記のさまざまなストーリーのオリジナルも縄文時代にあったはずです。

縄文時代にも言葉はあったはずですが、それをそのまま記録することができる文字は、存在していませんでした。また文字の前段階である記号が普遍的に使われていたようにも見えません。ジェスチャーゲームのように言葉と身振り手振りだけで伝える必要があります。重要なストーリーについては、何世代にも渡って語り継がれたはずです。文字にできないがために生まれた付加的な情報が蓄積された結果として、一見してありえないでたらめなストーリーになっていったのではないでしょうか?

根本的には、土偶や縄文土器についても同じことだろうと思っています。文字でストーリーを伝えられないため、その伝えられない部分を模様などの造形として表現する必要があったのです。そして文字で情報を伝えることになれきった私達には、その不思議な文様を理解することが、できなくなっているのではないでしょうか?

表現の変化

弥生時代になると記号らしきものが使われ始めます。そして古墳時代には、文字が使われ始めます。そうすると縄文的な奇っ怪な表現は、なりを潜めます。古墳時代にも人形として埴輪が作られ始めますが、それらはなにを表現しているのか理解しやすいものが多く存在しています。

この変化は、記号や文字が使われ始めたことにより、ストーリーをそのまま表現することができるようになったからではないでしょうか?

デタラメこそが真実

古事記を読んでいくと、史実かどうかは別として新しい時代の出来事については、ある程度詳しく、しかも現実的な内容となっていきます。前半部分について、わざわざでたらめな話を創作したのだとすれば、それはそれで興味深い話です。しかしながらわざわざ、でたらめなストーリーを創作する必要があったかどうかについては、非常に疑問です。もしそうするのであれば、なんらかの説明可能な動機があったはずです。

私はデタラメだから事実ではないという意見には、まったくもって賛同できないのです。デタラメだということこそ、言い伝えられたことをそのまま真実として記録した証拠だと思うのです。

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