外の人からみた不毛な博物館論争 その1

発端

先日、美術手帖に掲載された「博物館法よ、お前もか」という記事に対して、タイトルがセンセーショナルなだけで、なんの問題提起もしない中身のない記事だと批判したところ、著者ではないかと誤認されるようなTwitter登録名を使用した方が登場し、かなり気持ち悪い粘着をされてしまった。

その方との非常に無意味で薄いやりとりの中で、

文化財はなぜ価値があるものになるのか?

という問いかけをした。もちろん当人の言動から帰ってくる答えの内容を想定した上での質問だ。そして帰ってきた答えが、

学芸スタッフが価値付けをする

という極めて尊大な回答であった。予想通りの回答であった。もちろん、私はこれを徹底的に批判する。この考え方が、いわゆる中の人の中で一般化してるとは思わないが、それでもこれまでにそのような考えを持つ人達を目にしてきたことは事実だ。

博物館を愛する一利用者としては、このような考えを持つ人間を看過することはできないし、今後の文化財保護活動における障害であり害悪でしか無いと考えている。ここで批判をしておきたいと思う。

文化財はなぜ価値があるのか?

広辞苑によると財とは、

価値のあるものとみ。たから

とされている。文化財の大半はガラクタであるからして、金銭的な価値を伴う「とみ」にも「たから」にも該当しないものが、大半であると言えよう。つまり文化財は、「文化的に価値があるもの」ということになろう。

文化的に価値がある状態とは、いったいどういう状態なのであろうか?果たして学芸員が価値があると判断しただけで、そこに文化的価値が発生しうるのだろうか?

私は、決してそうは思わない。そこには

その文化財を大切に思う大勢の人々の存在

が不可欠だ。例えば創建がいつだか怪しい村の神社は、文化財と言えるだろう。日本中には、そのような文化財がいくらでもある。その神社が現代まで残り、保護されて来たのは、それを大切に思う人達あってのことだ。

現存する文化財の価値を作ってきたのは、大事にしてきた人たちであり学芸員ではない。これから発見される文化財の価値を作っていくのは、それを受け継いでいく人たちであり学芸員ではない。

今も昔もこれからも、文化財に価値を与えるためには、多くの人達の思いが必要不可欠だ。

学芸員の価値は?

もちろん、学芸員の仕事が無意味だとけなすために前段の文章を書いたわけではない。近代化が進み様々な物の価値が失われ、そして消え始めている社会だからこそ、ますます学芸員の役割は重要になってくる。

なぜなら高度な知識を持ったプロフェッショナルとして文化財のもつ重要性と意味を説明できる存在であるからだ。学芸員が説明しければ、多くの貴重な遺物が顧みられることなく捨て去られてしまうことになってしまう。文化財の重要性を伝え、文化財を大切に思う人達を増やすという点で学芸員の役割は、ますます重要になってくると私は考えている。

まとめ

文化財は、たくさんの人の思いによって現代まで受け継がれてきている。今後も受け継いでいくためには、より多くの人達の協力が不可欠だ。そのために博物館と学芸員は、より集客を意識し関係人口を増やす努力をしなければならないと考える。

ここまで駄文を書き連ねたところで思い立ってGoogle先生にお尋ねしたところ、なかはくの高崎館長が、立派な文章をお書きになられていた。私のなんぞ、読まずにこちらを読んでいただければ良いかなと思いますね。

追記

あらためて件の記事に対する私の感想も批判も一切変更する気はないことは、表明しておきたいと思います。また上記で書き連ねた私の批判は、記事の著者に対するものではなく、私のTwitterアカウントにリプライを残した不審なアカウントに対するものであることを強調しておきます。

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